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【復刻連載】900通が現存…ゴッホは、なぜ大量の手紙を書いたのか

2021/12/28 LINE はてなブックマーク facebook Twitter

■ゴッホ 8つの謎を探る旅─第8の謎
(この記事は2011年1月29日付で、内容は当時のものです)

 もしもファン・ゴッホ(1853~90)の手紙が1通も残っていなかったら、後世の人たちの作品に対する評価や、彼の絵について理解は違ったものになったでしょうか?

 この連載で取材した20人近いゴッホ研究者全員が即答してくれた唯一の質問だった。研究者の一人は、こう続けた。「手紙が残っていなかったら、私たちは彼が何を考えて代表作の『ひまわり』や『星月夜』を描き、日本について何を思っていたのか、具体的に知ることはできなかった」

 あまたの画家の中で、ゴッホが特別な人気を得ている要素の一つ。それが彼がつづった手紙だ。独特の画風を持った画家や、劇的な人生を送った画家は他にもいる。ただ、一人の画家、いや一人の人間について、これほど濃密な情報が得られる資料が残っていること自体が奇跡といえる。

 ゴッホがやりとりした手紙のうち、約900通が現存している。弟のテオ宛てが最も多く、600通以上を占める。最初の手紙は1872年、ゴッホが19歳のとき。当時働いていた美術商のハーグ支店を弟が訪ねた後に出したもので、ゴッホが亡くなるまで生涯続く文通の始まりとなった。

 それにしても、なぜゴッホはこれほど大量の手紙を書いたのだろうか?

   †   †

 パリを離れ、独自の作風を追求したゴッホは、2~3日に1通の割合で手紙を書いている。1年3カ月を過ごし、『ひまわり』や『星降る夜』などの傑作を描いた南仏アルルで195通、入院しながら『星月夜』など独自の世界観を生み出したサンレミでの1年間で101通、最期の地オーべール・シュル・オワーズの2カ月で30通、と制作意欲と比例するようだ。

 手紙には、制作中や描き終えた作品の素描も頻繁に描かれ、送付相手に絵の構想も事細かに語っている。なぜなのか。

 ゴッホ美術館主任研究員のクリス・ストルウェイク氏は「画商で美術界の流行を把握している弟や、画家仲間に手紙で作品の制作意図を伝え、返事で反応を聞きながら自分の考えを発展させていく狙いがあった」と指摘する。

 「テオに手紙を書く時は別の必然性もあった」。そう分析するのは、美術史学者の木下長宏氏だ。ゴッホが弟にあてた手紙の内容の多くは、いわゆる無心だった。作品数が増えれば、それだけ画材やお金が足りなくなる。ゴッホの頼みの綱は、完成した作品を渡す代わりに援助を引き受けてくれた弟の存在だった。

 「素描は、スポンサーのテオに、今、どんな作品を描いているか報告するためでもあった。ただ、書いているうちに、いつの間にか、常にゴッホの頭の中を占めていた、いかに描くかについて夢中で語っている」

ポストの脇にいたその子は届かない手紙を待っているように、
少し寂しそうだった。買い物を終えた家族が来ると笑顔で両親の手を握った
=ベルギー・モンス(撮影・岡部拓也)

 書簡集を読み続けるうちに、気付いたことがある。それは手紙の中に、いわゆる“耳を切った画家”ゴッホの「狂気」が見当たらないことだ。もう一つ。なぜこれだけの手紙が保管されたのか、という素朴な疑問も湧いてきた。

 手紙には〈気がふれ、あるいは病気となりながら、それでも自然を愛する人間がいる、それが画家というものだ〉と、自身の病気に触れることもあった。しかし、そうした記述には、むしろ冷静な自己観察が一貫して流れている。

 全書簡を公開しているゴッホ美術館のホームページで、手紙そのものを見ていくうちに、イメージはさらに揺らいだ。初期はオランダ語だったテオとの手紙のやりとりが、ロンドンで画商だったころには英語になり、フランス時代はフランス語中心で書かれているのだ。

 この点について、心理学者のアルバート・ルービン氏は著書『ゴッホ この世の旅人』で、ゴッホの語学的な才能を強調する。ゴッホは「狂気の画家」というよりも「知性の画家」ではなかったのか。

 

 通り一面に、落ち葉のじゅうたんが敷き詰められていた。10月半ばだが、吹き抜ける風は晩秋の気配を帯びていた。疑問を解決するために向かったのは、オランダ・アムステルダム。15年かけて新版書簡集の編さんを担当したゴッホ美術館学芸員のハンス・ライテン氏を自宅に訪ねた。手紙から浮かぶゴッホ像は? 答えは明快だった。

 「ゴッホ神話を打ち砕くようで申し訳ないが、彼は狂った天才ではなかった。深く物事を考え精力的で強い意志を持ち、注意深い人物像が浮かんできます」

 では、なぜ大量の手紙が残ったのか? またもや簡潔な答えが返ってきた。

 「きちょうめんで、保管癖があったテオのおかげです。彼はゴッホだけでなく、家族全員からの手紙を大切にとっていました」

 

 弟への感謝と自己のふがいなさ、画業を通して湧き上がる感動と怒り。相反するさまざまな感情をさらけ出し、束ね合わせるように書簡集はゴッホの姿を紡いでいる。お金の無心や画業への向上心にとどまらない何かが、手紙を書く行為に込められている気がした。

 その「何か」を考えようと、思いつく限りのことを書き出していたときだった。「これと同じだったのではないか」。思わず手が止まった。

 ゴッホにとって手紙を書く行為は、自分の考えや思いを書きとめて頭の中を整理し、物事を多角的に見つめ直す、心理療法の「認知療法」的な要素があったのではないか。

 南仏サンレミでゴッホが入院した精神科病院に付属するクリニックで、ゴッホの芸術と病気について研究するジャンマルク・ブロン氏は、この意見についての断言を避けたが、「絵とは別に、とにかく手紙を書くことで自己を確認せずにはいられなかったことは確かだ」と語った。

 渡欧前、作品と病気の関係について話を聞いた学習院大学教授の有川治男氏の指摘を思い出した。

 「ゴッホにとって絵を描くことは、精神の不安定さに対する対抗手段だった。病気だからあれだけの絵が描けたのではなく、むしろ病気であることにどうやって対抗できるかという拠り所が絵だった」

 現実に押し寄せてくる不安や苦悩。ゴッホは、それらを手紙につづることによって創作のエネルギーへと昇華していたのではないのか。アルル、サンレミ、そしてオーべール。手紙を多く書いた土地でゴッホが暮らした部屋はいずれも狭く、質素だった。そんな部屋でゴッホはキャンバスを離れた後、今度は粗末な紙に向かうことで、己の状態を冷静に見つめ、正気を保ちながら、到達点の見えない挑戦を続けていたのかもしれない。(佐々木直樹)

取材協力(当時) オランダ政府観光局、フランス観光開発機構、西鉄旅行


▼「ゴッホ展―― 響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」
 2021年12月23日~2022年2月13日、福岡市中央区の市美術館。オランダのクレラー=ミュラー美術館、ファン・ゴッホ美術館の収蔵品から、ゴッホの油彩画、素描など計52点のほか、ミレー、ルノワールなどの作品も紹介する。主催は福岡市美術館、西日本新聞社、RKB毎日放送。特別協賛はサイバーエージェント。協賛は大和ハウス工業、西部ガス、YKK AP、NISSHA。観覧料は一般2000円、高大生1300円、小中生800円。1月3日、10日を除く月曜休館。12月30日~1月1日と4日、11日も休館。問い合わせは西日本新聞イベントサービス=092(711)5491(平日午前9時半~午後5時半)。

■「ゴッホ展ーー響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」のチケットのご購入は
コチラから。

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