特別展「北斎」
2022/04/16(土) 〜 2022/06/12(日)
九州国立博物館
2022/05/11 |
頭をかかえてそろばんをはじく獅子、軽やかに舞う獅子…。愛嬌たっぷりな表情とバリエーション豊かなポージングで、今にも動き出しそうなほど生き生きと描かれている。九州国立博物館で開催中の特別展「北斎」で、ずらりと展示された重要文化財「日新除魔図(宮本家本)」は、江戸時代後期の絵師、葛飾北斎(1760―1849)が毎朝の日課として描いたとされる。全219枚がまとめて公開されるのは、今回が国内初だ。描かれた日付も明記されており、絵に込められた晩年の北斎の心象が伝わってくるようだ。
なぜ北斎は日々、獅子を描き続けたのか。
北斎の暮らしぶりは豊かではなかった。原稿料は一般絵師の2倍はもらっていたといわれているが、お金に無頓着な性分で、借金を重ねていた。長野県小布施町の北斎館学芸員中山幸洋さんは「北斎は非常に勉強家。さまざまなものをモチーフに、和漢洋の画法を多く取り入れて描いているので、資料購入にもかなりのお金を使っていたに違いない」と推測する。
日々ひたすら絵を描き、食事は出前で済ませる。部屋は汚れると転居を繰り返し、その回数は生涯で93回とも伝えられている。さらに晩年には数々の試練に見舞われる。素行の悪い孫の後始末に度々苦しめられ、理由は明らかではないが浦和に身を隠している。80歳の時には自宅が焼失、資料の大半が失われたという。
そこで北斎は「日新たに魔を除く」「わが孫なる悪魔を払う」ために、83歳のころから日課として獅子を描き始めた。北斎は描いた後、投げ捨てていたというが、娘のお栄(応為)が集めており、信州松代藩士・宮本慎助から注文を受けた作品の完成が遅れた際に、代わりにまとめて渡したという。
特別展を監修した国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の大久保純一教授は、完成度の高さと遊び心に注目してこう評する。「鑑賞者を意識して描いたものが少なからずあるのでは。このアイデア、面白いだろうと、北斎がほくそ笑んでいるかのようだ」
北斎が描いた作品は肉筆画、読本の挿絵、浮世絵版画など多岐にわたるが、数多くいたという門人らのため、絵手本の制作にも注力している。「すべてのものは丸と角で描ける」とし、絵手本「略画早指南」で定規とコンパスを使った作画方法を論じた。「北斎漫画」(15冊)では3900余の森羅万象の描き分け方や人間の細かな動きを切り取って記し、いわば絵の百科事典となっている。題材は庶民の生活から切り取ったもので、ユニークな表情や動きは現在の漫画の原点ともいえる。
晩年には「画本彩色通」で絵の具の作り方や彩色方法、銅版画など、具体的な技法を細かに記している。高齢を意識し、自身が得た知識や究めた画法を後世に残そうとしたようだ。
その半面、北斎は円熟してもなお「猫一匹満足に描けぬ」と泣いたという逸話が残されているほど向上心は尽きず、妥協を許さなかった。
北斎の卓越した能力について、大久保教授は次のように分析する。「圧倒的な描写密度や精度だけでなく、それぞれの時代で流行になりつつあるジャンルに進出して第一人者になっている。名所絵や摺物、絵手本、漫画、読本と、それぞれのブームの確立者だった」
90歳を迎えた北斎は正月の書き初めに「富士越龍図」を描く。自身が描き続けた雄大な富士を越え、黒雲の中を蛇行しながら天へと昇るやせた龍の姿は、辰年生まれの北斎を象徴しているといわれる。さらなる境地への決意をした北斎だったが、これが絶筆の一つとされている。
中国や西洋の画法を学び、老いてもなお試行錯誤を繰り返した北斎が目指した「神妙の域」とは、どのようなものだったのか。
大久保教授は「あるジャンルで頂点を成しても安住せず、スタイルを激しく変えて新たな峰を目指すすごさ。頂点を極めると、また新たな高みが見えてきたのだろう」と孤高の絵師の心境を推察する。
同年春、病床に伏した北斎は次の言葉を残して他界する。「天我をして5年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし(天よ、あと5年生かしておくれ。そうすれば真正の画工となれるものを)」
命尽きるその時まで、北斎はまさに画狂人であった。 (山本孝子)
=(4月30日付西日本新聞朝刊に掲載)=
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