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遮られる世界 パンデミックとアート 椹木野衣<10>無主物の世界観 人類的規模で失われていた スペイン風邪の集合的記憶【連載】

2020/05/12 LINE はてなブックマーク facebook Twitter

 20世紀初頭に、第1次世界大戦を遥(はる)かに上回る犠牲者(一説には全世界で1億人)を出す歴史的な大惨禍へと発展したにもかかわらず、「スペイン風邪」のパンデミックはなぜ、これまでかくも論じられてこなかったのか。第1次世界大戦をめぐる広範囲な研究や議論と比較したとき、差は歴然としている。いわんや美術史においてをやだ。

大正時代、スペイン風邪の大流行でマスク着用を呼び掛ける内務省衛生局のポスター
(国立保健医療科学院所蔵)

 このことは、西洋の文明がとりわけ近代以降、過去を踏まえた礎のうえに築かれ今日に至るという通念に、なにがしかの疑念をもたらす。わずか100年たらずの過去に起きたこれほどの出来事の記憶が、人類的な規模で集合的に失われていたのだとしたら、私たちはいったいなにを手掛かりに未来を切り開いていけばよいのだろう。新型コロナウイルスによる瞬く間のパンデミックは、途切れていたその記憶をふいに揺り戻した。もしかしたら私たちは、文明の進歩そのものを根幹から見直す必要があるのかもしれない。

 1995年に突如として起きた阪神淡路大震災は、美術批評家としての私に、戦後美術の全面的な見直しを迫った。それまで関西に大きな地震はないと言われてきた。しかしそれはまったくの思い込みだった。近代の美術やアートを生み出した西欧では、震災と言えるような地震はほぼ皆無だ。地盤が安定しているから、歴史は石積みの神殿のように過去の上に築かれる。美術史も同様だ。だが、その地盤そのものが不定期に大きく揺さぶられ、その上にあるものを広範囲にわたって破壊してしまうのだとしたら、そんな場所で歴史が、美術が成り立つのか。それが最大の問題だった。

 ゆえに私は、日本は「悪い場所」であると唱え、蓄積と発展によって文明が駆動される西欧と、いたずらに忘却と反復を繰り返すばかりの日本とでは、一見しては同じに思えても、美術やアートも根本では原理が異なっていると考えるようになった。

 裏返せば、おのずと西洋は「よい場所」ということになる。だが今回、新型コロナウイルスが呼び覚ましたスペイン風邪の記憶は、西欧やアメリカでも同様に、文明の随所で集合的、かつ大規模な記憶喪失が起きているかもしれない予感をもたらした。西欧もまた、程度の差こそあれ日本と同様に悪い場所かもしれないのだ。

 揺れるはずのない神の創造物、大地が不安定なのは、キリスト教文明圏にとってあってはならぬことだ。ゆえに18世紀に起きた東日本大震災級のリスボン地震は忘れられた。スペイン風邪は感染症だが、共通するのは人の手が及ばぬ次元にあることだ。戦争は、どれほどひどい過ちでも人が起こす。加害者も被害者も存在する。それなら正義の名のもとに裁くことも、罰を加えることもできる。だが、ウイルスを加害者と呼ぶことは少なくとも法的には意味がない。地震も同様だ。そこには主体がない。キリスト教的に読みかえれば、主(あるじ)としてのキリスト(=救い主)がいない。

 東京電力福島第1原子力発電所のメルトダウン事故では、放出された放射性物質は所有者のいない「無主物」と見做された。その点で言えば、ウイルスとはまさしく無主物にほかならない。パンデミック下では誰も主体的には行動できない。アートもまた、今後は無主物の世界観が求められているはずだ。(椹木野衣)=5月8日付西日本新聞朝刊に掲載=

 

椹木野衣(さわらぎ・のい)
美術評論家、多摩美術大教授。1962年埼玉県生まれ。同志社大卒。著書に「日本・現代・美術」「反アート入門」「後美術論」「震美術論」など。

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