江口寿史展
EGUCHI in ASIA
2024/11/09(土) 〜 2025/01/12(日)
福岡アジア美術館
2021/07/13 |
東京五輪の開会式まで、いよいよ1カ月に迫った。6月20日をもって、沖縄県を除き全国に出されていた緊急事態宣言は解除されたが、東京では微増の傾向も見られる。延期の決定当初に「人類がコロナに打ち勝った証し」を掲げていたのとは程遠い状況だ。
国の内外で人の移動を可能な限り抑制するのが感染症対策の基本だとしたら、それこそ人類最大規模の国際的な祭典である五輪をコロナ禍で強行するのは、どう考えても矛盾している。平成のアートを牽引(けんいん)してきた国際芸術祭の苦境も、スケールこそ違えども基本は同じ理由による。
しかし、そんななか改めて考えてみれば、「国際芸術祭」とは奇妙な呼称かもしれない。もともと「祭り」はローカルなもので、文字通り土着のものだ。人の移動も地域内に限られていた。それが「国際化」するとは、どういうことだろう。もっとも、コロナ前の観光の急激な過熱のなかで、国内の祭りはとっくに国際化していた。宿は何カ月も前からネットを通じて争奪戦になっていたし、観光客は世界の隅々から飛行機を乗り継いで集まってきた。ローカルなものがそのまま世界と接続される――それがグローバル時代の祭りの典型なのだ。基本的には国際芸術祭もこの時代の流れをくんでいる。
とはいえ、両者を接続した「グローカル」なる言葉が一時もてはやされたように、ローカルとグローバルはもとより相性がよかった。ローカルは中心に対する周縁として位置付けられる概念だから、長く中心の位置をしめた中央(東京)が世界化すれば、おのずと中心は複数化し地球全体へと拡散される。そしてグローバルはなにより、世界化した資本主義を原動力とする。市場へ投入される新奇な領域を常に欲し、開拓し続けているのだ。ローカルであるがゆえに希少な文化資源は、そのための格好の材料と言えた。
ところがコロナ・パンデミックは、世界をローカルの集合からグローバルとは無縁なドメスティックの点在へと一瞬にして変えてしまった。ドメスティックは「国内の」などと訳されるが、いま起きていることは「都道府県」単位まで縮減され、さらに言えば感染予防のための飲食の集いが家族に限られるなど、「家庭内」にまで抑制されている。
もっとも、ドメスティックと聞いてすぐに連想するのは、「DV=ドメスティック・バイオレンス(家庭内暴力)」かもしれない。事実、リモートワークや遠隔授業で家族が家に篭りがちになる傾向のなかで、DVが増えているという話はかねてから出ていた。としたら、グローバル化の極限で現れたコロナのパンデミックと「相性」がいいのは、ローカルではなくむしろドメスティックかもしれない。コロナの時代、私たちはインターナショナル(国際)でもグローバル(世界)でもなく、結果としてドメスティックな時代に入り込んでいる。
それならアートにおいても、私たちはドメスティックな時代の条件を前提に思索し、行動する必要がある。これはグローバル時代の「国際芸術」とも「祭り」ともまったく異なる。むろん、ドメスティックには多くの影がつきまとう。DVはその最たるものだろう。その危惧がないとは言えない。それでもなお、ここへきて国内では次々とドメスティックな新しいアートの兆しが見え始めた。これはずいぶん前に触れたネットを介するリモート・アートとは決定的に違っている。次回はそのことについて触れたい。(椹木野衣)
=(6月24日付西日本新聞朝刊に掲載)=
椹木野衣(さわらぎ・のい)
美術評論家、多摩美術大教授。1962年埼玉県生まれ。同志社大卒。著書に「日本・現代・美術」「反アート入門」「後美術論」「震美術論」など。
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