生誕100年 いわさきちひろ、絵描きです。
2019/04/20(土) 〜 2019/05/26(日)
10:00 〜 20:00
福岡アジア美術館
2019/04/16 |
●戦争体験経て才能開花
子どもを題材にした印象的な水彩画やパステル画で知られる画家いわさきちひろ(1918~74)は、その作品の多くが「かわいい」「やさしい」「やわらかい」という印象で語られている。だが、反戦をはじめ鋭角な主張を込めた作品も多いことはあまり知られていない。筆致も単に「やさしい」だけではない。20日から福岡市の福岡アジア美術館で開かれる展覧会「生誕100年 いわさきちひろ、絵描きです。」には、印象を「豹変(ひょうへん)」させる狙いがあるという。会場に足を運べば、あなたの知らない、いわさきちひろがきっといる。
いわさきちひろは1918年12月15日、岩崎正勝、文江夫妻の3人姉妹の長女として生まれた。戸籍名は「岩崎知弘」で「ちひろ」と読む。正勝は陸軍技師、文江は女学校教師で、当時としては珍しい夫婦共働きの核家族で、経済的には比較的恵まれていたようだ。
25年、治安維持法公布▽31年、満州事変▽32年、五・一五事件▽36年、二・二六事件▽37年、日中戦争始まる-。ちひろが過ごした多感な時期は、まさに日本が悲惨な戦争に向かう時代の入り口でもあった。大正デモクラシーの自由な雰囲気に包まれていた岩崎家にも徐々に戦争の影がさした。
40年、文江は教師を辞め、若い女性を満州移民の花嫁候補として送り出す組織の責任者となった。ちひろも44年、現地の女子開拓義勇隊員に書道や家事を教えるため満州に渡る。しかしソ連国境に近い寒村で体調を崩し、ほどなく帰国する。
ちひろと一緒に満州に渡った女子義勇隊員のほとんどはソ連侵攻の混乱で生死不明という。帰国したちひろも45年5月25日の東京・山手大空襲に遭った。一家は無事だったものの中野の岩崎家は焼け落ちた。
後に戦争と子どもが主題の絵本を3冊著したちひろは、自身の空襲体験を「いちめんの火の海のなかを、家族とばらばらになった私は、川のあるほうのあき地へ逃げてバケツで水をかぶっていました」(69年「わたしのえほん」みどり書房)と振り返る。
45年8月15日の終戦を疎開先の長野県松本市で迎えたちひろは「草穂(くさほ)」と題した日記を残している。16日の「国破れて山河有り」の文字と絵から9月6日まで108ページにわたり、心境をつづり、風景や人物などのスケッチを描いている。
戦争推進の側にいた私はこれからどう生きればいいのか-。26歳のちひろは早くも前を向く。しかし進むべき道は見えない。転機は46年1月13日。ちひろは共産党の演説会に行き、治安維持法違反で9回も逮捕された人の話を聞く。
「戦争が終わって、はじめてなぜ戦争がおきるのかということが学べました。そして、その戦争に反対して牢(ろう)に入れられた人たちのいたことを知りました。殺された人のいることも知りました」(「人生手帳」72年12月号、文理書院)
ちひろは共産党に入党。後年の日記に「正しい人を殺してはならない。私はこの切なる気持ちから以外にコミュニストになったのではない」と記す。党の宣伝芸術学校で絵画を学ぶために上京し、新聞記者の職に就き、丸木位里・俊夫妻のデッサン会にも通った。
少女時代に絵雑誌「コドモノクニ」で岡本帰一、初山滋、武井武雄の絵にひかれ、女学校時代には佐賀県出身の正統派洋画家、岡田三郎助にデッサンと油絵の基礎を学び、戦時中は洋画家、中谷泰に師事したちひろは、時代や人と出合いながら才能を開花させ、とどまることなく「豹変」する。(大西直人、画像はちひろ美術館提供)=4月2日 西日本新聞朝刊に掲載=
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