江口寿史展
EGUCHI in ASIA
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福岡アジア美術館
2019/04/27 |
唐津焼の重鎮で、4年前に亡くなった中里重利さん(1930~2015)の回顧展「中里重利展」(西日本新聞社共催)が、佐賀県唐津市の市近代図書館美術ホールで開かれている。父親で唐津焼の人間国宝、故中里無庵(むあん)さん(十二代中里太郎右衛門)や兄弟とともに、桃山時代の野趣に富んだ古唐津の復興を遂げる一方、全身全霊を傾け独自の美意識を追究した。ひたすら土と誠実に向き合い続けた作陶人生を46点の作品でたどっている。 (下村佳史)
「まだ、夢がたくさんあるんだ。もうしばらく、俺の夢に付き合ってくれ」
中里さんは亡くなる1カ月前、長女の坂本美紀さん(58)にこんな言葉を残した。闘病中の病院でのこと。「退院したら『繭』のような作品を、どんどん作りたい」とも語っていた。
モダンな造形美を追い求めた「繭」。蚕が糸をはき、繭を作り出すように化粧土を施し、その真綿のような色彩からぬくもりが伝わってくる。「土がなりたがっている形があるのです」。土と対話しながら、創作の意味を問い続けた20代後半ごろの作品だ。「創作は自分の裸を見せること。スタイルとか、人がどう評価するかではない」。中里さんは晩年、当時の心境をこう語っている。
美紀さんは「寝ても覚めても、焼き物のことで頭がいっぱいの人生でした。(晩年になっても)自分の気持ちを純粋に表現できるようになった青春時代にもう一度、戻ってみたいと思ったのでしょう」と振り返る。
中里さんは35歳のとき、新たな境地を切り開く。釉薬(ゆうやく)の成分によって発色させるのではなく、素地(きじ)が焼き締まって赤くなる現象を用いた代表作「三玄壺(さんげんこ)」を生み出した。土を輪積みにし、道具で叩(たた)きながら作る古唐津の技法も使っている。この作品で日展特選・北斗賞を受け、全国で知られる唐津焼の作家となった。
釉薬はつや出し程度で、ほんの少ししか掛けず、炎を微妙に加減しながら、下が赤、中段が黒、上は乳白色と三つの層の色に分かれるよう焼き上げた。この独自の技法は登り窯に入って作業していたときに着想した。窯の内側の壁は何度も焼き込まれて変質し、壁の下の方でクリーム色だった耐火れんがが赤く変色しているのに気づいた。「炎の走り方を考え、工夫して焼けば、あの壁のような色合いが出せると考えた」と、生前に語っている。
ただ、炎のちょっとした温度の違いで、あかね色のような鮮やかな色彩が出せず茶色になってしまい、晩年まで炎との苦闘が続いたという。
中里さんは茶陶の世界で広く知られ、誰もが認めるろくろの名手だ。陶磁史研究家で、茶陶器の第一人者の故林屋晴三さんは「『轆轤(ろくろ)の優れた人は誰(だれ)でしょう』と尋ねられたとき、私はすぐに『中里重利さん』と答えた」との文を残す。
中里さんは無庵さんの三男。11人いる無庵さんの子どものうち、陶芸家になったのは長男の故逢庵(ほうあん)さん(十三代中里太郎右衛門)と五男の隆さんを合わせて3人。中里さんは幼いころをこう語っている。「私は土掘りから、ろくろ、窯たきと、おやじの手伝いが何でもできるように仕込まれた。おやじは親子で窯をもり立てたかったのです」
戦前の10歳のころ、父親のもとで作陶を始めた中里さん。戦後、日本の経済が立ち直り、日用品の注文が入るようになると「負けるもんか」と、意地になって無庵さんと、ろくろをひく数を競った。
「古唐津に倣うとしても、きちんと土を操れるようにならないと。ろくろを究めてから、初めて昔の技に迫っていけるのです」。中里さんには、古唐津を作った400年以上前の陶工になりきってしまおうとするすごみがあった。
おいの十四代中里太郎右衛門さん(62)は、中里さんに無庵さんのそばで培った技を優しく手ほどきされたという。「叔父は、昔のものをただ復元するのではなく、いまの時代に合った新しい唐津焼を創作している。回顧展では自由に生み出された作風を感じ取ってみてください」
中里さんが晩年、口にした印象深い言葉。「私は焼き物のことしか知りません」。ただ、ただ作り続けることを喜びとした陶工の生きざまを、数々の作品が醸し出す。=4月17日 西日本新聞朝刊に掲載=
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