ギュスターヴ・モロー展 サロメと宿命の女たち
2019/10/01(火) 〜 2019/11/24(日)
09:30 〜 17:30
福岡市美術館
木下貴子 2019/10/29 |
「ファム・ファタル(宿命の女)」をテーマに、パリのギュスターヴ・モロー美術館の所蔵品約100点を紹介する展覧会『ギュスターヴ・モロー展 サロメと宿命の女たち』(福岡市美術館にて11月24日(日)まで)。会場の様子をお伝えした前回のレポートに続き、今回は10月6日(日)に開催された講演会「ギュスターヴ・モローのサロメ」をお届けします。
講師の喜多崎親氏(成城大学教授)は19世紀象徴主義を専門とし、また1995年に東京と京都で開催された『ギュスターヴ・モロー』展の企画もされた方です。本講演では、モローが描くファム・ファタルの中でも代表的な女性であるサロメをテーマにお話しされました。
「サロメがどのように描かれてきたか、あるいは元々はどういう話だったかということを最初に確認しておきます」と喜多崎氏。モローが描いた一連のサロメの作品がそうであるように、他の作家の作品でもサロメは裸体に近い恰好で踊る様が描かれたり、また、洗礼者聖ヨハネに恋をしてそれが受け入れられなかったためその首を求めた……というイメージがついています。ですが喜多崎氏によると、そのイメージは19世紀末の作家、オスカー・ワイルドが書いた戯曲『サロメ』によって作られたものが始まりであり、その後それが定着したものなのだそうです。
サロメの話を起源とする聖書では、ヨハネの首を求めたのはヘロデ王の再婚相手であるヘロディアとされています。宴で披露したサロメの踊りを喜び、サロメに褒美をもたらすと約束したヘロデ王。そこにヘロディアがつけこみ、自分と王の結婚に対して非難をしたヨハネの首をとってくるようサロメに命じたというのが本来の話です。「サロメが恋をして自らヨハネの首を求めたというのはワイルドの創作です。聖書ができてから約2000年の間に、サロメのイメージが全く変わっていったのです」。聖書の挿絵、中世の壁画、ルネサンス、バロック時代の絵画作品などの図版を紹介しながら、喜多崎氏はサロメの変遷をたどっていきました。
中世では、洗礼者聖ヨハネの生涯の物語として複数の場面が連続し、また1つの場面に異なる時間と空間が自由に組み合わされる表現も見られます。
ルネサンスの時代にもなると空間の捉え方や、人体の表現方法が現実的になり、複数の時間が同居することに抵抗が覚えられるようになり異時同図という表現が急速に減っていきます。ですが物語を伝えるには複数の物語を1つの場面に描く方が便利なため、画家たちはさりげなく工夫を凝らしていったと話します。
バロック時代にはいよいよ複数の場面が共存することが不自然とされ、1つの場面で物語が表されるようになります。そうするとインパクトと華やかさがあり、ヨハネの死も描かれる、サロメが首を受け取るシーンが選ばれる……という運びになったそうです。
「本当は母親のヘロディアが首を求めたのに、やがて絵の中から彼女はいなくなり、サロメとヨハネの首という組み合わせが繰り返し描かれていくようになりました。19世紀になってサロメがヨハネに恋をしたという話をワイルドが作った根源が、ここにあるのではないでしょうか」と喜多崎氏は推測します。「モローもまたこういう流れの中でサロメを描いています」。
喜多崎氏が、今回もう一点サロメの変遷で大きく着目したのが、衣装についてです。1876年という同年に描かれたモローの《サロメ》と《出現》のイメージを並べ、「一方は重厚な衣装を身にまとっていますが、一方はほぼ半裸です。油彩の《出現》ではもっと裸体に近い感じで描かれています。これは何なんでしょうか」と疑問を投げかけます。
「この問題を考えるうえで、実はオリエントという問題があります。ヨーロッパが19世紀に東洋、とくに中東を見ているときのオリエントです。19世紀のサロメは、簡単にいうとオリエント化していきます」。
聖書世界はもともと地中海の東側(イスラエルやアラブ世界)にあり、19世紀の人々はその地域の当時のイメージをそのまま、古代の聖書世界に重ねていったといいます。聖書を主題にしたその頃の絵画には、衣装やターバンというようにオリエンタルなものが取り入れられています。
「オリエント化と密接にかかわるのが裸体表現です」と喜多崎氏。「サロメが裸体で踊ったという記述もなく、裸体で踊るという伝統もありません。ですが19世紀中ごろからサロメが裸体で描かれるようになってきたのは、当時エジプトで行われていた「アルメ」という舞姫(=娼婦)の踊りが、サロメの踊りのイメージとして採り入れられたと考えられます。そこには、ヨーロッパが他者にむけた差別的なまなざしがありました」。
「オリエント化することによって、踊りが裸体と結びついて考えられるようになり、それがモローにも入っていくわけです」と先に挙げた疑問点について、喜多崎氏は分析します。
講演の後半では、サロメをはじめモローならではの絵画表現についてさらなる興味深い話が展開されました。
モローは衣装や建築のイメージ源に、絵入り雑誌、装飾図版集、建築図版集、展覧会におけるスケッチ、具体的にはインド、ムーア、中国、日本、ビザンティン、フランク、ローマなど、さまざまな時代・地域を合成し、架空のオリエントを創り上げてきたといいます。モローの覚書にこういう記述があるそうです。「どうしても、古典ギリシアの陳腐な古着は使いたくなかったので、私は全てを自分で創り出さなくてはならなかった。私はまず頭の中でその人物に与えたい性格を考え、それからその最初で基本的な発想に合うように着せる。従って、私のサロメでは巫女や神秘的な性格を持った宗教的魔術師のような人物にしたいと考え、聖遺物匣のごとき衣装を思いついた」……つまり、モローはキャラクターを考えてから服を考えるという、独特の手法をとっていたわけです。
話は、《出現》に施されている線描にもおよびました。1897年に出版された『比較彫刻美術館アルバム』という写真集を《出現》の線描の参考にしたというモロー。「この作品集は1897年に出版されました。モローは1898年に亡くなったので、その直前です。ゆえに、この線描は最晩年に施こされたということが確認できます。下の柱は当然それを想定して描いたわけでないので、はみだしたりずれたりしています。最晩年だったから仕上げる時間がなかったという説明もつきますが、モローの作品にこういう表現は割とたくさんあるんです。さらに下絵でない可能性があると考えられるのは、暗いところは白い線で描いたり、白い線が目立たないところは黒など濃い色を使うなど、効果として描いているわけです」。
モローはまた1985年頃に、注文によって64点の水彩画を描きその展覧会も行ったといいます。「下の絵を透かせて描くこの水彩画の効果を、モローは油絵でも応用していると考えることができのではないでしょうか」とも話します。
最後に、喜多崎氏は「モローは、19世紀の植民地主義による聖書世界のオリエント化に刺激されたのは確かだと思います。しかしその目的は現実らしさになく、オリエント化はするけれどもリアルなものを作っていく方向にむかず、あちこちの模様をまぜて混淆様式によって、サロメの「巫女や神秘的な性格を持った宗教的な魔術師」のような性質を表すことが目的でした。そして晩年に施される線描というのは、作品の状態としては当時の概念からは未完成。けれどもそれ自体が現実から乖離することで、やはりサロメの性質を表していると考えられ、モローは意図的にその状態でとどめたとのではないかと、私はいま思っています」とまとめられ、講演を締めくくりました。
サロメの物語、衣装(裸体)描写の変遷、モローが影響を受けたこと、あるいは独特の手法や観点でサロメを描いていったこと……喜多崎氏が語ったように様々な歴史・背景をもっているのです。本展会場では、ヴァリエーションに富んだサロメの作品が並んでいます。本講演で語られたサロメにまつわる話を参考にしていただきながら、モローが描いた「究極のファム・ファタル」をどうぞ存分に堪能してください。
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