江口寿史展
EGUCHI in ASIA
2024/11/09(土) 〜 2025/01/12(日)
福岡アジア美術館
2023/04/06 |
新年度が始まった。家の近くの著名な桜並木にもかつての賑(にぎ)わいが戻ってきた。最寄りの駅は交通整理で大混雑だ。外国人観光客も多い。花見酒に酔ってか顔を突き合わせ唾を飛ばし言い争う姿を本当に久しぶりに見た。飲食店はどこもぎゅうぎゅうの満席だ。おのずとマスクを外す人の姿も日を追うごとに増えていく。コロナ禍は今度こそ本当に去ったのだろうか。
けれども、一見してはそう見えても、かつてとまったく同じとはいえない。持病を持っている人にとっては依然、新型コロナが命にかかわる事態を招きかねない恐ろしい病気であることに変わりはない。なにせ、いまだ治療法が確立していないのだ。街で行きつけにしていた古くからの飲食店も、コロナの余波でここ数年にかけ次々と店をたたみ、いまはもうない。かつては深夜まで賑わってなかなか席を確保できなかった人気の店も、夜9時近くなると客足が鈍り、予約をせずとも入れるようになった。終電も早まり、夜が深まると街は急速に寂しくなる。閉店の時間を早めた店も多い。聞けば、もう戻す予定はないという。家路を急ぐ人たちからは店を梯子(はしご)する習慣が消えたかのようだ。
生活や仕事の各所でオンライン化した習慣もすぐに元に戻るわけではない。在宅勤務に合わせて都心から離れ地方に移った人も少なくない。海外への渡航はようやく正常化しつつあるけれども、遠出をすることの費用やリスクはむしろ高まっている。そこへきてSNSや配信に頼る傾向は増加しているから、全体に行動が内向きになっているのは否めない。煎じ詰めて言えば、コロナ禍を通じて、わたしたちの「衣食住」という暮らしの根幹が総体として内向きへと不可逆的に変化してしまった。「遮られる世界」は、非接触の利便性のみ残し、「遮られた世界」のまま平常を取り戻しつつあるのだ。
けれども、どんなにリモート化が進んでも、わたしたちの身体そのものがオンライン化できるわけではない。そもそも、わたしたちの身体が新型コロナウイルスによって危機に瀕(ひん)したからこそ、世界は生身の身体を尺度に個々の領域へと分断されたのだった。近年話題になることの多いメタバースにせよ同様だろう。インターネットのなかでわたしたちの身体を仮想しようとする試みは、なにより、わたしたちの生身の身体を懸命に守ろうとする衝動によって突き動かされている。その意味で、わたしたちの身体への執着は、無意識的に強まっているとさえ考えられる。
こうしたことを考えたとき、新型コロナが去ったあとのアートについてわたしたちが考えなければならないのは、表現において一見してリモート化が進んだとしても、その実、深層には身体への恐れや有限な生命への執着(種の保存?)がこびりついているということだ。そして、それが恐れや執着であるなら、わたしたちは無意識的にそれを「否認」し、結果として積極的に忘れようとさえするだろう。だが、それが忘れるという消極的な対処である限り、恐れや執着は様相を変えて意識に昇り、ある種の症例として顕在化する。フロイトの精神分析や夢判断にあるとおりだ。としたら、今後のアートの行方を占ううえで、本連載でも間欠的にキーワードとなってきた「夢」という現象の推移に、わたしたちは以後いっそう注目する必要があるのではないだろうか。(椹木野衣)
=(4月6日付西日本新聞朝刊に掲載)=
椹木野衣(さわらぎ・のい)
美術評論家、多摩美術大教授。1962年埼玉県生まれ。同志社大卒。著書に「日本・現代・美術」「反アート入門」「後美術論」「震美術論」など。
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つなぎ美術館
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九州芸文館